ご無沙汰しています、タイヘイです。

無事日本に帰ってきて元気に過ごしております。

ご連絡くださった方々ありがとう。

 

年末になり、少し静かな時間が訪れましたので、煩悩を数えながら今年のことなどを振り返りつつご挨拶をさせて下さいませ。

 

 

日本食はやはり美味い物ですね

ステーキ、刺身、焼き鳥におでん、それにお蕎麦

日本に帰ってきてから、毎日のように、皆様に色々とご馳走になりまして

 

快調なペースで体重を増やしていっているところですが

そんな中でも、内臓系の食べものというのは

インドではさらにありつけにくく、ありついたとしても鮮度その他の面で、なかなか残念になってしまうものであります。

 

その最たる物が、白子ではないかと思うのですが。

私は白子や卵巣というものに目が無く

 

一年ぶりに口にした、鮮度の良いタラの白子ポン酢は、海の業をギュッと濃縮させて、ライフルで脳みそに打ち込んでくるような。
 

何やら、私の太古のルーツ、ずっとずっとの前世から繋がってくる深い深い因縁を思わせる味でございました。

 

動物の肉というものは、辿れば白子と卵巣にいきつくもので

もしかしたら白子を食べるということは

現実世界というものに、全く汚れていない、無垢の命をいただく所行なのかもしれませんね

 04

 

さて、今日は大晦日

少し前に、私は婚約をしたのですが。今年は1人で年末年始を過ごすことになりました。婚約・再婚の話は、また別の機会に書こうと思います。


上手くいった恋愛の話など、当事者以外には最高に退屈なものでありますゆえ、もしかしたら書かないかもしれません。

 
 

ともかく、今日は大晦日。

日中は家庭教師をしておりました。

 

私に無断で14歳になった少年は、私に無断で声変わりをし、私に無断で身長が160cmを越えておりました

やがて私に無断で恋人をつくり、結婚をする

そうして私に許可をとってから、立ちションなどの軽犯罪でお巡りさんに叱られ

なんだかんだありながら、無許可で幸せになることでしょう

 

これは『許可』とは何か?という冗談でありまして

『法律』とは何か?という冗談にも繋がっております

 

どちらも、実は曖昧模糊としたものなのかも知れません。

 

神の許可を得て、爆弾を抱えて飛び込む子供達がいるのですから。

 

 

 

話を戻しますが、今日は彼に因数分解を教えておりました。

中学生の因数分解など、いってしまえば5パターン程度しかバリエーションがありません。

構造を見抜いて、+と−に注意すれば終わりのパズルです。

 

こんなものは計算訓練に過ぎませんので、私は徹底的に目の前で問題を解かせ続けます。

ルームランナーのように、ゆっくりからはじめ、徐々に処理速度をあげさせていく。

速度をあげていくと、次第に『落とし穴』が見えてくる。

毎回毎回やってしまう同じ失敗が見えてくる。

 

何回も説明されて「ああそうだった!」と思う同じミスを何度もしてしまう。

 

こういうものが『カルマ』と呼ばれる物かもしれませんね。

気がついていても、やっぱり失敗をする。

分かっていても、間違えてしまう。

 

10回説明して、100回練習してもはまってしまう落とし穴

なんども諦めさせようとする落とし穴

 

だけど、突然サラッとかわせるようになるときが来る

 

大袈裟ですが『ああ、私も彼もそのために生きているのだな』と感じるものです。

 

もしかしたら、とんでもない時間をかけて。ただ、そういうことをやっているだけなのかも知れませんね。

寿限無寿限無五劫のすり切れ・・・

 

 

そんな私にとっては楽しく、彼にとっては地獄の時間を過ごした後。

私は、一年の垢を落とそうと温泉施設に向かいました。

サウナあり、露天風呂あり、漫画喫茶ばりの休憩所あり、インターネットあり、マッサージあり、レストランありの健康ランドでございます。
中年のディズニーランドでございます。 

 

話は一瞬それますが『危険運転』というのは離れて見ていても腹が立つものでございます。

その本質は『公の場』で『大事な物』を脅かす可能性がある行為だからで

 

実際に事故が起こらなかったとしても。無茶苦茶な割り込みや、逆走などをする『無法者』が『いるかもしれない』と思うだけでも、普通の人にはストレスであり。迷惑なのですね

 

マナーというものは、その場において『あなたの大事なものを大事にしますよ』ということを示すために大切なのではないかと、私は考えております。

それを上手に逆手に取るのが、ヒトタラシのテクニックでございます。
 

 

 

さて、風呂の話に戻るのですが

 

男というものは、公衆浴場において。タオルを用い白子を隠すものであります

公衆浴場経験のないインド人男性を、公衆浴場に叩き込み様子を見ましたが

やはり、タオルで白子を隠しておりました。

 

無理矢理な論理的仮説にお付き合いいただくことになりますが、白子は男性にとって子孫繁栄に繋がる最も大事な部分のひとつである。

さらに普段は露出から免れているため。裸一つで他人の場に出るとき、おのずから防御したくなる心の働きがあり隠すのではないかと。

 

こいつは財布の中身を隠しているのと同じであります。
 

『今日、俺は10万円持っているんだゾウ!』ババ抜き状態のトランプで持ち歩く人はおりません。そのような行為も危険運転なのです。金は通常の感覚であれば大事なものであり、そういったものを晒しながら歩くことは、普通の他者からみたら不安を煽る行為となり得ます。

 

同じ理屈で、白子をさらしながら、公衆浴場を闊歩することは危険運転であり。事実、そのような輩がいると、やや不安定な気持ちに苛まれるものでございます。

そのような感情・行動が長い時間を経て最大公約数的に洗練されたものが『マナー』と呼ばれるのではないかと私は考えております。
 

 

しかしこれは場によって異なる。例えば男子校の寮の大浴場などで白子を隠すと

「てめえ、俺たちがそんなに信頼に足らない人間だというのか!」とお叱りを受ける。ふさわしさというのは、何事においても存在する。ルールには例外も存在するのでありますな。いやむしろ例外の方に、味わい深い理屈があることも多いものだと感じまする。

 

 

さて、私も白子を隠しつつ。湯船に浸かり。サウナ→水風呂→サウナを楽しんでおりました。

3回目の水につかる折、毎回そうであるようにタオルは水風呂の縁に置き、サウナで吹き出した汗を流すべく、オケで頭から水をざぶりかぶると、そろり首まで水につかります。

 

すると白子を隠して表れた1人の若人と、白子を隠さず表れた1人の若人が、汗を流すこと無く水風呂にザブンと飛び込みました。

 

『ひゃー冷てえ!キンタマがキュッと締まるぜ』

『違いねぇ!キュッと締まるぜ!』

 

そのマナーの悪さもさることながら、公衆の面前で白子をキンタマなどという唾棄すべき蔑称することに腹を立てた私は

 

『おいおい、君たち。サウナの後の水風呂は、さらりと汗を流してから入るのがマナーだよ』と叱ろうと動き出す。

 

しかし、待て。では湯はどうなのだ?アレも汗を湯船に垂れ流しているではないか。そんなことを言い出したら、もう、何にも浸かれなくなるだろう。

この理屈はおかしい。これでは若者を導けない。真剣で向かい合うのが道である

 

では白子をキンタマと言ったことは? どう考えても、彼らの方がまともな人間である。頭がおかしいのは私の方でござる。

 

では白子をタオルで隠さないことが問題か? まあ注意できるのは、せいぜいこのレベルだが・・・

 

などと考えている内に、彼らは水風呂から出て行く。

見ると、2人とも白子を隠していた。

 

『ふむふむ、それならよろしい』

私もかろうじて溜飲を下げ、水風呂を堪能する。

 

 

さてそろそろかと、出ようとすると。私の白子隠しが無いではないか。

 

ハッとした。あの若人。キャツめ、白子を隠さず入り、白子を隠して出て行った! 拙者の白子隠しが、今はあの狼藉者の白子を隠しているということか! おのれコレが狙いか盗人め!怒ってみても、もはやアフターカーニバル。

 

 

隠そうと思ったときに、タオルが無い。

仕方なく両の手で隠してみるが、これはおそろしく情けない。

 

刀には鞘が必要である。手では刀は隠せない。

そう、白子にはタオルが必要なのだ。

 

私は、もう1ターンくらいサウナを堪能したかったが、たとえ振り回す意志はなくとも、刀を鞘に収めずしては世間に溶け込めない

私は大切な刀の鞘である、タオルの管理がぬるかった自分を戒めながら。すごすごと風呂場から去ったのであった。
 

 

何が言いたいのかというと、物事やマナーには、きちんと人間の感情に寄り添った歴史的理屈が存在するということである。 白子は美味い物であるということである。

 
 
 

そんな素敵な風呂の時間を終え、家に帰る。

家はフィアンセが掃除してくれたので、とても綺麗。

 

大晦日といえば大掃除。私も、大切な大掃除をすることにしました。

 

私のPCのデスクトップには『遺言』という名のファイルがあります。

私がインドに行くときに、大事な人達に向けて書いた手紙が入れてあります。

 

今となってしまっては、そこまで危ない場所ではないことが分かっているので、笑い話なのですが。

 

当時の私には、『死』は十分起こりうる結末のひとつでした。

 

私が死んだときに、そのファイルの手紙は宛てた相手に届くよう、少しだけ細工を施してある。そんな手紙たちです。

 

大掃除

 

そんな手紙達を読み返し、一つ一つ消去いたしました。

 

 

真剣に最期の言葉として刻んだ文字は、不思議な物で、自分で書いた物なのに、自分自身に響いてくるのです。
 

 

誰をどんな風に思っていて

誰にどんな言葉を最期に投げたいのか

 

自分は今まで、どういう姿勢で生きてきたのか

何を大事にして

何をいい加減にしてきたのか

 

自分の歴史を問い詰めながら書いた手紙を

自分の歴史を受け入れながら開き、消していくことが無事できることを


静かに感謝しながらPCに向かっております。 

今日飲む酒は、さぞ美味いでしょうな。
 

 

 

詳しくは書けないのですが、この一年。私は『あ、本当に死ぬ』と思ったことがありまして。

 

正直、今、こうして生きているのが、私の最期の最期に見ている夢で。

私の実体はインドのぬるい地面の上、息を引き取ろうとしている瞬間なのでは無いかと思うことがあります。

 

その一連は多分、本当の意味では誰にも証明できないことなのだと感じています。

 

 

もしも、そのときに私が死んでいたとしたら。

私は沢山の人に迷惑をかけたと思います。

私の妻になってくれる人も、泣き叫んだと思います。

 

沢山の人が悲しくなり。それなりに少なくない人間が本心から喜ぶでしょう。

 

 

人間の『幸』『不幸』というものも独立したものでは無いのかもしれませんね。

 
 

 

例えばこんなお爺さんがいたとして。

彼は生前沢山の人達を助けて、沢山の人達を導いて、沢山の人達を嬉しい気持ちにして、沢山の人達から心の底から好かれたとして。

 

そのお爺さんは、もしかしたら、一番人を酷い人なのかもしれません。

 

死ぬとき、沢山の人が泣くことを、悲しむことを悪だとするなら。一番悪い人かもしれません。一番、人を不幸にする人かもしれません。

 

 

同じ理屈で、誰からも嫌われたある人は、一番人を幸せにする人かもしれません。

死んだとき、泣きながら喜ぶ人が沢山いるのかもしれません。

 

 

そんなふうに、個人の『幸』『不幸』も陸続きで切り離せないものかもしれません。

 

年収が10億円くらいあって、物質的に殆ど全てが満たされた人は

もしかしたら、金で買えない『寿命』に対する執着が、貧乏な人よりも遙かに強くて不幸かもしれません。『なんで寿命だけ買えないんだ!』と苦しいのかもしれません。

諦めきれないかもしれません。


 

だけど、その人はもしかしたら、『苦しくても良い』と思って生きているのかもしれません。
切っても切り離せない苦しみを、それでも良いと味わって生きているのかもしれません。
 

 

『苦しみ』

『苦し味』

『苦味』

 
 

『苦み』は酒に良く合って。とても味わい深い味覚だなぁと、ほざきながら2016年を終えたいと思います。

 
 

こんなへんてこりんなブログを楽しんで下さって本当にありがとうございました。

日本に帰ってきてから、『ブログ毎日読んでる!』と予想外に多くの人から声をかけていただき嬉しい気持ちになりました。

 

今後、ココで書いていくのかどうか。まだ決めかねておりますが。

何かの発信はしていきたいと思っております。

 

2016年 私の友達の話を集めてみると『苦しい思いをした』という意見が多かったです。どなたにとっても『甘み』と比べたら、やはり『苦み』という方が多いのが人生なのかもしれません。

 

2017年 その『苦み』が熟成されて、自分にも他人にも良い味に変化していったら素敵かもしれないなぁ。などとお祈りしてご挨拶とさせてください。

 

皆様、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

『人間関係は良い誤解か悪い誤解』

〜立川談志〜




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